..... 西原っ子純情 その4 .....
..... At Naha City, Okinawa; from 1989 to 1993.
At Ginowan City, Okinawa; 1993.
At Gushikawa City and Ishigaki City, Okinawa; from 1997 to 1998.
At Nakagusuku Village, Okinawa; November 18, 2001.
The narrator of this story is Akinobu Yagami.
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中学を卒業すると、俺は那覇市内の定時制高校へ通った。昼は、国吉先生が紹介してくれたガソリンスタンドで働いた。店長は国吉先生の最初の教え子だそうだ。とてもいい人で、よく昼飯をご馳走になった。

夜間高校にはいろいろな年代の人が通っていた。非行から立ち直った俺みたいなのもいれば、四十代、五十代の同級生もいた。毎日、クラスメートといろいろなことを語り合った。あのときの仲間は今でも俺の宝だ。

遅すぎるスタートなんてない、人生、いつでもやり直しが利く。四年間の高校生活を通して、俺は肌でそのことを学んだ。俺みたいに非行に走りかけた奴を少しでも救いたい、だから警察官になろうと思った。必死で大学の受験勉強に励んだ。

親同士の離婚が成立し、遅ればせながら父親から慰謝料の支払いがあった。学校推薦で私立大学へ進学できると聞きつけたクラスメートたちが、俺のために泣いて喜んでくれた。



沖縄の私立大学は、授業料が国立並みに安いことで有名で、俺の通っていた大学もそのひとつだ。就職指導に熱心で、その点ではむしろ琉海大よりよかった。ただ、米軍の飛行場が近くにあり、発着陸する軍用機の爆音でよく講義が中断した。



やはり、あの事件には触れておくべきだろう。



忘れもしない二〇〇四年の八月、米軍ヘリが落ちて沖縄中が大騒ぎになった。そう、俺の母校に。

そのときのことを思い出すと今でも俺は怒りに震える。俺は県警の一員として現場に急行したが、米軍に立ち入りを拒否され、丸一日、現場検証が出来なかったのだ。

俺は叫びたかった。ここは日本だ! 俺の母校だ! まして、アメリカの植民地なんかじゃない!

加えて、オリンピック熱に沸きあがっていた日本中の、反応のなんと冷たかったことか。北方領土や尖閣諸島、南鳥島や竹島の問題がどうこう叫ぶ前に、沖縄の、それも学術施設のど真ん中にヘリが落ちた事実について論じる知識人のなんと少ないことか。



あえてもう一度、ここで皆に問いたい。

沖縄はただの癒しの島か? 疲れきった日本人の、都合のいい楽園か?

戦争を乗り越え平和を望む人々の叫びを無視して、無責任なこと言うなよ。

領土問題を論じるなら、沖縄の事件も平等に土俵に上げるべきだよな?

沖縄に住む人間だって、平和に暮らす最低限の権利がある。そうだろ?



なぜだろう。多くの日本人が、この問題に目を覆い、耳を塞ぐ。

俺たちが生まれる前に沖縄は日本になったけど、現実はなんも変わっちゃいないぜ。



話を元へ戻そう。

俺は大学を卒業後、警察官採用試験に合格した。具志川市にある警察学校で六ヶ月間、みっちり基礎を身に着けたあと、しばらく石垣島で交番勤務に就いた。

石垣島は沖縄本島からさら四百キロ南西にある。「おーりとーり」(いらっしゃい)と耳に優しく響く八重山方言と人懐っこい人々、沖縄本島とはまた一味違うのんびりした雰囲気、赤瓦の家々から流れるとぅばらーまの歌、そして、ピパーチ(ヒハツ:香辛料の一種)が香りたつ八重山そばのうまさはまた格別だ。

できれば、定年前にもう一度、石垣島で勤務をしたい。願わくば、今度は家族と呼べる人々と共に。



だが、当時の俺は妙に焦っていた。のんびりした石垣島にいると、情報から取り残されている気がした。警察学校の同級生のほとんどは本島勤務で、忙しい毎日を送っている。一日も早く刑事になって、暴力団の取り締まりに当たりたい。俺は何度も上司に異動を申し出た。

「矢上、そう焦るんじゃない。地域住民を守るという意味では、交番勤務も大事だぞ」

わかっている。よーくわかっているけど、俺は第一線で働きたいんだ。



一九九八年八月の深夜、俺は街中で、ある女子高校生を補導した。三日ほど前から友人宅へ外泊して、そのまま行方をくらましていて、親御さんから捜索願が出ていたのだ。

彼女はなんと、バドマイザー(小さなガラスの小ビン)を持っていた。

これは、一つの可能性を示唆している。覚せい剤使用だ。



婦人警官に任せて調書を取ってもらうと、とんでもない事実が発覚した。ある暴力団組織が東南アジア経由で覚せい剤を持ちこんでいるらしい。しかも大量に。

石垣島は交通の要所だ。台湾への定期船が就航していて、貨物コンテナが頻繁に行き交う。麻薬が紛れ込む可能性は決して否定できない。



女子高生は震えていた。密告がばれると組織から売春を強要されるというのだ。

無論、彼女にも多少の落ち度はあるだろう。俺にも覚えがある。すこし不良を気取っているつもりが、やがてとんでもない蟻地獄に落ちてしまうことがあるってことを。そして、ちょっとやそっとじゃ抜け出せなくなり、助けを呼ぶこともできなくなる。



俺は幸運だった。あのとき、島袋桂が力ずくで俺を止めなかったら、俺は警察官にはなれなかった。

彼女はただ、桂のような友人に今までめぐり合えなかっただけなのだ。

これ以上、彼女を危険に晒すわけにはいかない。



俺たちは一丸となって捜査を進めた。やがて、伊原間(いばるま)地区の郊外にある空き家にあった覚せい剤を押収することに成功した。組織の本部は沖縄本島でまだ活動を続けている。

俺は再三、異動を願い出た。そして、一九九九年、暴力団対策課へ配属が決まった。



二〇〇一年十月。俺は、組織を追って中城城跡近くのとあるホテルの廃墟へ向かっていた。

不法所在をしていた外国人から、ようやくのことで麻薬取引の詳細を聞きだしたのだ。念のために防弾チョッキを身に着け、拳銃を持った。できれば銃は使いたくないが、相手が相手だ。油断は出来ない。

覆面車数台で出かけた。現場は道幅が狭い丘陵地帯だ。三名はその場で待機、あとの四名は二手に分かれ、挟み撃ちにすることにした。薄暗い夕暮れの中、俺は、一緒に組んでいた先輩のクロシマさんと雑草をかき分け、建物の背後へと回った。



突然、中からけたたましい銃声が響いた。気づかれたか?

すぐに本部へ応援を頼み、そっと建物の中を覗きこむ。大きなアタッシュケースが広げられているが、人影は見えない。

背後に気配を感じた。とっさに背負い投げをし、相手を組み伏せる。剣道・柔道・防御術については警察学校で鍛えられ、赴任先の石垣島でも継続して講習を受けていた。



拳銃を奪い、手錠を掛ける。まだ何人か仲間がいるはずだ。

深呼吸をして拳銃を構えなおし、じりじりと中へ足を踏み入れた。その時だ。銃声がして、クロシマさんがうずくまった。すぐに応戦し、相手の手首近くを撃ち抜く。制圧し手錠を掛けた。

「大丈夫ですか?」

クロシマさんへ駆け寄ったとき、一帯にサイレンの音が響いた。どうやら一網打尽に押さえることができたらしい。クロシマさんは左脚の太ももを押さえ、苦痛に顔をゆがめている。予想以上に出血がひどい。

救急車を手配し、一緒に飛び乗った。ここから一番近い救急病院は、サザン・ホスピタル。うまくいけば五分で着く。どうか助かりますように!



矢上君の後輩(という設定)のKatsuyaさんの手によるブログOkinawa日和 米軍ヘリ墜落事故(4)には、事件当日夜の、事故の当事者である大学生たちの様子が細かく描かれています。後輩のKatsuyaさんの目に、一警官である矢上君はどう映ったのでしょうか。事件現場の様子、警備に当たる米軍と沖縄県警の姿に興味を持たれた読者のみなさま、是非ご参照ください。当HPはKatsuyaさんからの許諾を受けて、このリンクを表示しております。

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