注:この小説は第2回おきなわ文学賞小説部門佳作作品です。 すでに作品集『はなうる2006』(財団法人沖縄県文化振興会)に収録して出版済みのを改定し、Web再収録しました。
それから二ヶ月間、ダニエルと暮らした。頼みもしないのに、トモエからはあたしの部屋の荷物が段ボール箱で届けられた。
バトンルージュにあるオズボーンの家へ来てからは、ダニエルも、それなりに幸福な子供時代を過ごしたようだ。優しい養父母の下で、高校を主席で卒業すると、ビジネススクールに通いながらトランペットを吹き続けた。近郊のレストランだけでなく、週末にはニューオーリンズにある叔母の家で世話になりながら、ジャズの演奏に明け暮れたという。
そしてダニエルは、数年前に起こったあのニューオーリンズの水害についても、事細かに話してくれた。巨大なハリケーンが連れてきた大波は瞬く間に堤防を越え、あのフレンチクォーターを水浸しにし、叔母宅のすぐ側へと押し迫った。
車に叔母と、飼い猫たちと、必要最低限の物資を載せて、バトンルージュの家へ逃げ帰ったんだ。その道中で見かけた光景のひどさといったら! 街路樹なんて全部、根元からひっくり返っているんだ。道路わきに面した家々は一つ残らず、ガラスが割られてる。割れているんじゃない、どう見たってハンマーみたいなので割られてるんだよ。
マーケットで食料を買おうと駐車場に車を停めたら、警備員が止めるんだ。全部略奪されて持っていかれちまったって。このあたり一帯で略奪行為や暴力事件が起こっているから、さっさと別のルートから逃げろって。全くクレージーだよ! 別のルートは水浸しで、この道しかないってのに!
その晩は、なんとか古びたモーテルの一室にもぐりこんだよ。叔母がシャワーを使ったり夕食を用意してくれている間、何気なくテレビをつけたのさ。そしたら、どのチャンネルもスーパードームにいる避難民が泣き喚いている映像ばかり垂れ流してさ。避難場所として指定されていたはずなのに、赤ちゃんが飲むミルクすら用意されてないってんだ!
その一方で、一部地域の白人には、食料が優先的に配られてたんだよ! しかも、ある政治家がテレビのインタビューに答えててさ。あの人たちは好きで薄汚い地域に住んでるんだから、いまさら助けてもしょうがない、なんてしゃべってたんだ。信じられる?
“You idiot! Those people can't make it out at all!”
って、叔母がテレビに向かってどえらい剣幕で吠えていたよ。まるで、つい昨日のことみたいだ。
あれ以来、僕はテレビが大嫌いになった。テレビをつけると悲惨な映像が出てくる気がして、堪えられないんだ。理那、分かってくれるかい?
あたしはうなずいた。いいわ。テレビなんか要らない。淋しくなったら、トランペット吹いてちょうだいね? そう言ってダニエルの頬にキスをした。彼の大きな胸に抱かれていると、この幸せがいつまでも続くような気がした。
そして、あたしは妊娠した。
ダニエルは驚き、うれしさと戸惑いが入り混じった表情をした。黒人の子を産んだら、君にとてつもない苦労をさせてしまう。いいのかい?
戸惑いの理由は他にもあった。アメリカでは出産費用がバカに高くて、かなりの出費を覚悟しなくてはならない。出産はあくまでも自然現象であって病気ではないから、保険が利かないのだ。あたしの海外旅行損害保険にも、出産は適応外としっかり明記されている。
悩んだ挙句、あたしは沖縄の実家に電話した。学業を放っぽらかして黒人の子を妊娠したと聞けば、父も母も激怒するに違いない。できれば兄に出て欲しかった。小額でもいい、なんとかお金を振り込んでくれるよう、頼むつもりだった。
が、電話に出たのは、母だった。
「もしもし」という懐かしい声に返す言葉がなく、無言で立ち尽くしていると、受話器から声がした。
「理那? あんたは元気なの? 毎日、ちゃんとごはんは食べてるね?」
優しい声に感情が爆発した。思わず受話器にすがり付いて、泣き叫んでしまった。
「お母さん、ごめんなさい! あたし、あたし……」
思い切って妊娠を告げたとき、変わらぬ優しい声が返ってきた。
「理那、いいから帰てぃくーわ。何ん心配さんてぃん、済むさ。赤ちゃんのことは、お父さんには私が話しておくから。夜明きどぅんさー、チケット代や、アメリカの口座んかい振り込どーちゅ事。理那は何ん気掛けーさん如、とにかく、すぐ沖縄に帰っておいで。いいね?」
クリスマスムード一色の那覇空港に降り立つと、母と兄が出迎えてくれた。
「アメリカから長旅だったねー。疲れたでしょ? 大丈夫ね?」
母はそう言うと、あたしの頭をよしよしと撫でた。兄は黙ってあたしの手からトランクを奪って、駐車場へと引っ張った。
「赤ちゃんは何ヶ月なるの? つわりはない?」
驚いたことに、母は全然怒っていなかった。ごめんねと謝ると、あたしの顔を覗き込んで笑った。
「本当に好きな人との赤ちゃんだよね?だったら、いいさー」
兄が運転する車の中。後部座席に隣り合った母が言った。
「お母さんね、壮宏と理那生む前に、流産したことがあるんだよ。知ってた?」
驚いて首を振ると、母は懐かしそうにこう語りだした。
ある冬の朝、ロサンゼルスで働く婚約中の父に冗談半分で電話を掛けたら、あの父がホームシックを起こして、電話口で泣きじゃくっていたそうだ。
「なあ多恵子、我ね、サンシン弾からんなたさ! なー、もう、だめだ。助けてくれ、多恵子!」
それを聞いた母は、電話を切るや否や、すぐさまハンドバックとパスポートと空のスーツケースを二つも持って家を飛び出した。沖縄の特産品を山のように詰め込み、那覇空港から本土行きの飛行機をつかまえ、そのまま成田からロサンゼルスへ旅立ったという!
唖然とするあたしに、母はこう語りかけた。
「人間、本気で人を好きになったら、その人のためになんでもしようって思うものだよ。あんたも私の娘だったら、何か仕出かしても決しておかしくはない、そう思ったわけさ。
でもね、理那。お母さんはロサンゼルスで一週間暮らして、お父さんの子を身ごもって帰ってきたけど、それが分かったとき……ちょうど今頃だけど、お父さんが車の事故を起こしてしまったわけ。
右足はもう動かない、だから、医者の仕事を続けられないかもしれない、って書かれた手紙もらってね、お母さん、お父さんの分まで働こうと思った。みんなから結婚を反対されても、お金を稼げば、お父さんの足をリハビリしながら、赤ちゃんと三人で暮らせる。そう思って、妊娠したことみんなに黙って、ずっと働いた。そしたら、流産してしまったわけさー」
母は車の窓から外を眺めて、ため息をついた。
「流産して、お母さん、いっぱい泣いたよ。帰ってきたお父さんと、二人で抱き合って泣いたさ。とっても悲しかった。自分のせいで、せっかくの命が消えてなくなってしまったって、幾回も
幾回も肝病でぃ、自分を責めたよ。だからね、神様が授けてくれた命は、大事に大事にしないと。わかった?」
あたしはうなずいて、母にもたれかかった。
この子を守ろう、守り抜いて、産もう。頬を涙で濡らしながら、そう決意した。
車が着いた先は、西原にある母の実家だった。祖母は、あたしの大好きなアーサのおつゆとソーミンチャンプルーを用意して待っててくれていた。
仏壇に線香を供えて、妊娠の報告をした。相手が黒人だと告げると、さすがに祖父母はびっくりした様子だった。が、トランペットを吹く人だよと言ったら、祖母は
「おじいもサンシン弾くし、多恵子もサンシン弾ちゃーつかまえたし、やっぱり血筋は争えないねー」
と言って、笑った。それを聞いた祖父は、ただ
「はーっしぇ」
とだけつぶやくと、ニワトリの餌をやる、と言って、ぷいと席を立った。
あたしはそのまま、祖父母の家に泊まることになった。父が激怒して、あたしを宜野湾の家には上げるなと言ったらしい。
「いいよ。お父さんは頑固だけど、いつか、ちゃんとわかってくれるよ。あんたは、おなかの子供のことだけ考えなさい」
母はそう言って、兄と帰っていった。
翌朝一番に、ダニエルへ国際電話を入れた。長時間の飛行をかなり心配してくれたらしく、ほっとした声が響く。クリスマスシーズンは大事な稼ぎ時だ。年明けまでスケジュールがいっぱいいっぱいで、全く動けない。ニューイヤーのギャラが入ったら、必ず沖縄へ飛ぶから。待っててくれ。
“I love you.”
と互いにつぶやいて、キスの音をさせて電話を切った。
あたしは年を越しても祖父母の家にいた。つわりで起き上がるのがしんどかったこともあるが、父の怒りがなかなか収まらなかったからだ。
母は毎日、来てくれた。
「お母さんはつわりのとき、よくタンカン食べてたよ」
と箱いっぱいタンカンを買ってきて、あたしの側で皮を剥いた。確かに、悪くなかった。一日三個は食べていた気がする。
でも、どちらかというと、あたしの好みはブルーシールのチョコアイスクリームだった。兄が勤めの帰りにパイントで買ってきてくれるのだ。あたしがペロリと平らげると、
「さすが、黒人の子供がおなかに入っているだけあるなー」
と、半ばあきれた声がした。あたしは舌を出しておどけた。
そして、とうとう、ダニエルが沖縄へやってきた。
アメリカの免許証しか持ってないあたしに代わって、兄が朝から年休を取って空港へ迎えに行った。幼い頃はよく喧嘩もしたし、あたしのほうが口達者で英語も得意だったのに、ダニエルとジョークを交わしながら戻ってきた兄を目の当たりにして、過ぎた年月の長さを思い知った。
祖父母はにこやかにダニエルをもてなした。彼は最初、二メートルちかくある体を小さく小さくして、じっとおとなしくしていたが、祖母がジューシーメーのおにぎりを差し出すと、大きな口を開けて一気に飲み込んでしまった。周囲から失笑が漏れた。
プロローン、プロロローンと電話が鳴る。母からだ。ダニエルが着いたかどうか確認したかったらしい。そして、電話口で済まなさそうにこう告げた。
「お父さん、まだ怒っているのよ。本当は一緒につれて行って会わせたいんだけどね」
突然、兄があたしから受話器をひったくった。
「母さん、親父に替わって。話がある」
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