..... マルディグラの朝 その3 .....
..... 注:この小説は第2回おきなわ文学賞小説部門佳作作品です。
すでに作品集『はなうる2006』(財団法人沖縄県文化振興会)に収録して出版済みのを改定し、Web再収録しました。




ダニエルは紳士だった。

ガールフレンドが病気だから、と、せっかく決まったセッションの仕事を惜しげもなく断ってしまうと、ずっと半病人のあたしに付きっ切りで、リンゴを剥いたり、温かいスープをスプーンですくって口元へ運んでくれたりした。あたしは、それをまるで雛が親鳥からもらうみたいに、口を開けて飲み込んだ。彼に幾度も笑われたけど、すでに取り澄ましていられる状態じゃなかった。

月曜日には、少しふらつくけどベッドの回りをうろうろ歩けるようになった。あたしは大学に電話を入れ、指導教官に体調不良で一週間休むと告げた。



火曜日の午後。

あたしたちは、小さなリビングでミルクココアを飲みながら語り合っていた。

今朝、ベッドサイドから見える棚から、鈍い金色の光がちらついたので、椅子に昇って確認してみたのだ。それは、トランペットのおもちゃだった。おもちゃとはいえ真鍮製の本格的なもので、ダニエルが吹くと限りなく本物に近い音がした。

「すごーい!」

あたしが驚くと、彼は誇らしげにうなずいた。三つの頃もらったクリスマスプレゼントなんだ、と言いながら、彼は大事そうにそれを撫でた。

そして、話してくれた。本当の母親は自分を産んだ後、どこかへ消えてしまった、と。黒人の父親は、知り合いを頼ってロサンゼルスへ来て、日雇い労働をしながら自分を育ててくれた。だけど、ハロウィンを目前に控えた日曜日、チャイナタウンの一角にある大型ショッピングセンターの駐車場で、父は僕の目の前で銃撃され倒れた、と。

何が起きたかわからずに、ERの廊下で呆然とたたずんでいたら、金髪の研修医が僕を抱き上げてね。中国風の不思議なメロディを口ずさみながら、白い大きな手で、僕の背中をポンポンと叩いてくれた。その手の温もりのおかげで、僕はようやく、涙を流せたんだ。



そうか、それでダニエルはあたしにも、こんなに優しくしてくれるんだね?

うなずくあたしの側で、ダニエルは静かにココアを啜った。そして再び、続けた。



父親が死んでしばらくは孤児院にいたんだけど、なんとその男性がガールフレンドを連れて、一度だけ僕を訪ねてきてくれてね。一緒にUniversal Studioへ遊びにいったんだ。

「え? ノース・ハリウッドの?」

ダニエルはうなずいて話を続けた。そうそう。父親が連れて行くと約束して、それきりになっていたんだけど、そこへ行ったんだ。すごかったなぁ。あの時、初めてBig Birdを見たよ。それで、帰り際にクリスマスプレゼントって、このトランペットのおもちゃを買ってくれたんだ。

年が明けて、僕は養子に行った。最初の二軒はさんざんだったけど、三度目、ルイジアナにあるオズボーンの家へ養子に行ったら、父も母も優しくってね。僕のおもちゃのトランペット見てさ、なんと、音楽教室に通わせてくれたんだよ。まだ五歳の男の子に!

“So, you became a trumpeter!”

“That's right!”

あたしたちは声を立てて笑った。すると、ダニエルは椅子から立ち上がって、あたしの肩をつついた。理那、沖縄の歌を是非いくつか教えてくれよ。次のセッションで曲のつなぎに使ってみたいんだ。歌って、さあ!

恥ずかしかったけど、ご要望にお答えしてあたしも椅子から立ち上がった。そして、思い出すまま「いったーあんまーまーかいが」と「 赤田(あかた)首里(すん)殿内(どぅんち)」を歌った。

ダニエルは小さな拍手をしながらつぶやいた。へえ、コチンダって名前といい、歌といい、どう聴いてもこれは中国風な感じがする。理那、やっぱり沖縄は日本じゃないよ?

そんなことないってば、と答えようとしたときだ。

リンゴーンと部屋のチャイムが鳴った。ダニエルがドアを開けると、突然、Policeが二名上がりこんで、ダニエルの両腕を荒々しく押さえた。テーブルの上にあったマグカップが転がって床に落ち、ガシャンと音を立てて割れた。

“Are you Mr. Osborne?”

“What's up?!”

“We want to talk with you. Could you join us for a moment?”

引っ立てられるダニエルの側をすり抜けて、見覚えのある女性があたしの視界に飛び込んできた。

「理那! やっぱ、ここにおったんか!」

トモエはそう叫びながら、あたしの腕を力強く引っ張った。

「おまえが黒人のアパートへ連れ去られたっていうから! さあ、帰るよ!」

「ち、ちょっと待って! ダニエルは別に何も……」

あたしの言葉に答えず、トモエはなおもあたしの腕を引っ張り続ける。

「ここはスラム街に隣り合わせで危険やで。早よ出んと!」

「待って、やめて! トモエ、やめてってば!」

あたしは自分をつかむトモエの腕を振りほどこうとして、思い切り彼女を壁に打ちつけてしまった。バンッと音を立ててトモエの左肘の皮が破け、白いブラウスの袖がみるみる赤く染まった。

「……理那?」

「ご、ごめん、そんなつもりじゃ」

謝罪しようとするあたしを、トモエは大声で罵倒した。

「あんた本気なん? 学校も行かんと、こんなニグロ野郎と暮らす気?」



瞬間、突き刺すよな視線を背中に感じた。

ダニエルが冷たい目であたしたちを力なく眺めていた。



「トモエ、謝って。ダニエルに、謝って」

全身を震わせながら、あたしはトモエに言った。が、彼女は吐き捨てるようにこうつぶやいたのだ。

「おまえ、アホか? こんな奴と一緒にいたいなんて、何考えてんねん? 狂うたんか?」

その言葉に、カッとなった。思わず左手を振り上げた。

「アホはどっちよ!」

平手打ちされた右頬を押さえ、目を見開いたまま驚くトモエに、あたしは叫んだ。

“Get out here!”



十分後には、何事もなかったように静寂が戻ってきていた。

ダニエルは床の上に転がったマグカップの破片を丁寧に拾っている。あたしは物事を考えることが出来なくて、ただ椅子の上に呆然と佇んでいた。

“Rina,”

ダニエルの声にあたしは視線を上げた。

“Are you going back home?”

黙ったままあたしは首を振った。

帰れない。帰るわけにはいかない。トモエを、ルームメイトを殴ったのだ。シェアしているとはいえ、玄関がひとつしかない部屋に彼女が迎え入れてくれるはずがない。悲しくて、悔しくて、涙があとからあとから流れ出た。

ダニエルが近づいてきて、あたしの顔を覗き込む。両手があたしのあごに触れ、黒い両親指が、あたしの目から頬へつたう涙を静かに拭った。

“Don't cry, Rina. Don't cry.”

あたしは微かにうなずき、目を閉じた。自分からダニエルにもたれかかった。今はただ、彼の温もりが欲しかった。額に、彼の唇がそっと触れるのがわかった。

でも、次の瞬間、彼は即座にあたしから身を離した。

“No, no. We'll just be friends, Rina.”

“Daniel?”

弾けたように椅子から立ち上がる。だけど、彼はずっと壁を向いたまま、声だけ返した。

“……I think you should go back.”

嘘だ。心にもない、嘘。

だって、声に力がないもの。



あたしは、ゆっくり彼の背中に近づくと、爪先をピンと伸ばして首根っこにしがみつき、しゃくりあげた。帰りたくない。ずっと、ここに居たいよ、ダニエル。

やがて、彼がこちら側に向き直った。優しい目があたしを正面からとらえた。もう一度、目を閉じた。

唇と唇が触れた。あたしたちは時間を忘れ、夕日が差すリビングで固く抱き合った。



その晩、ベッドの中で、いっぱい互いのことを語り合った。ダニエルはあたしに、自分の二の腕にいくつも残された、タバコのお灸の跡を見せてくれた。

最初、養子に行った家には、飲んだくれの男がいてさ。育児給付金欲しさに養子縁組することを思いついたんだろう。毎晩浴びるようにアルコールを飲んで、気に食わないことがあると僕を捕まえて、火のついたタバコを腕に押し付けるんだ。何度も、何度も。

いつか殺されるんじゃないかと怖くなって、トランペットのおもちゃとスナック菓子を鞄に詰めこんで、孤児院まで逃げ帰ったっけ。道路沿いに歩いて、丸二日かかったかな。夜は、木陰でトランペット吹いてた。きれいな星空が広がっててね。ほら、 “Twinkle, twinkle, little star”って歌があるだろ? あれしか吹けなかったけどさ。



聞いているこちらが泣けてきて、あたしはタオルケットで何度も流れる涙を拭った。

しかも、悲劇はこれだけではない。次に養子縁組をした家では、誰もダニエルに食事を作ってはくれなかった。もぬけのような台所で、彼は自分で冷蔵庫を開け、毎日冷たいハムを食いちぎっていたらしい。あわや飢餓寸前まで放って置かれ、駆けつけた救急隊員が再び孤児院へ通報したのだという。

何度も話を聞いては、もらい泣きした。ダニエルがかわいそうで、かわいそうで、涙を流しながら何度も抱き合った。

今のダニエルに必要なのは、悲惨で孤独だった子供の頃の経験を分かち合い、包み込むパートナーだ。強く抱きしめて、「もうあなたは大丈夫だ」「そのままのあなたが大好きだ」と無条件に受け入れ、力づけてくれる存在が、何よりも重要なのだ。

机上の心理学の知識なんて、今の二人にはどうでもいいことのように思えた。あたしは迷わず、大学へ休学届を出した。

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